「不自由」なRPGの話


掲示板で指摘されていたことに自分なりに考えてみました。まだ、あんまりまとまってないです
が、お許しくださまし。いろいろ、指摘されると考えるきっかけになりますね。感謝!



「不自由」なRPGの話
人間が作るもの全てに言えるのは、物というのは、人間にとって心地よく都合の良いものなん
ですよね。故に、その条件を満たすものというのは限られてくるのだと思います。

古来、洋の東西を問わず芸術・娯楽の題材になってきたものはそれほど変わらないと思うので
す。人間が人間である限り、それが求めるものは一定の範囲に限定され、そしてそれこそが人
間らしさなのだと考えることも出来ます。喜怒哀楽なんかは普遍的ですよね。
もしそれが変わるのだとしたら、それは人間が人間でなくなるときかも知れません。(例えばサ
イボーグになったり、進化したり、遺伝子を書き換えたり)


そして近代、人間の歴史は共通認識を広げる方向性にあると思います。歩き方ひとつをとって
も江戸時代のものとはかなり性質も異なるそうです。

それはつまり機械やコンピュータのように共通規格化することで効率化を図ってきたのだと思
います。しかしそれにも弊害はあります。同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的
な欠陥を持つことになる可能性があるということです。

そういった危機感・ストレスを感じることは様々な分野で昨今叫ばれているのではないかと思い
ます。ゲームも例外ではないですね。模倣の模倣では衰退してしまいます。
衰退を防ぐ方法は、新しい血を入れるということ。ゲームを見て作られたゲームではなく、別の
分野から抽出したものをゲームに入れる必要がありますね。

例えば、スーパーマリオブラザーズなんかはアスレチックジムで遊ぶ楽しさを、ポケモンは少年
期の昆虫採集がモデルになっているそうです。そういった、別の分野の要素を取り入れること
で、革新的な作品は生まれるのかもしれません。


人間に夢を見せ続ける道具としてのMMO
ゲームは芸術作品としての側面と、人間に夢を見せ続ける道具としての側面があると思いま
す。

道具というものは、長い間使われ続けることで「最適化」され同じような形になっていきます。例
えば、車や飛行機のようなものから、バイオリンやパソコンといったものもそういえるのではな
いでしょうか?ゲーム、そしてMMOも例外ではないのでしょう。

西洋から借りたもの
日本人は舶来品を尊ぶ傾向があります。島国にであったからかもしれません。今でもブランド
物のバッグなど海外の製品をありがたがる傾向は変わらないですね。
しかしながら、私は西洋から借りているというのは「文明」というより「機能」ではないかと思いま
す。これは前述している共通規格化と同じことが言えますね。

世界でヒットしているのに、日本ではヒットしないMMOって結構ありますよね。それは、機能は
受け入れたが価値観は受け入れていない証拠なのではないかと私は思います。

ハリウッド映画が多くの人に受け入れられる理由
アメリカという国は「人種の坩堝」に例えられるように、様々な人種、宗教、思想が混在している
国です。その国で作られる娯楽は幅広いターゲットに対して受け入れられる必要性がありま
す。

多くの種類、多くの人が共通に理解できるためには、人間の根本的な部分にせざるを得ない、
そうなると、セックス&バイオレンス(きれいな言葉で言い換えればラブロマンスとアクション)の
ようにテーマは限定されてしまいます。

私の好きな押井守はそこから外れようとして思考実験をテーマにした作品を多く手がけていま
すが、残念ながら理解できる人や興味を持つ人が限定されたり少なければ、ビジネスとしては
振るわないようです。

より深く、楽しむために
誰でも楽しめるものは、それはそれで価値があると思います。
しかし、歌舞伎やオペラはより深く楽しむために一定の知識や情報を必要とします。
歌舞伎などの芝居では見巧者と呼ばれる観客がいる。見巧者とは、芝居をよく見慣れていて、
一般的に物の見方の上手な人を意味し、役者は目の肥えた見巧者に満足してもらうべく、芸に
磨きをかけるのだ言います。
より深く楽しむためには、見る側の度量も必要なのかもしれません。


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